空が死んだことは、会社の同僚や友人等には伝えていました。
ただ、ペットが死んだことのつらさを話してみたところで、ペットを飼っていない人にとってはピンとこないだろう、ということは想像できましたので、「飼ってた犬が死んじゃってショック」程度にしか伝えませんでした。
唯一、気持ちを吐き出せそうなのは実家の両親(特に母)だったのですが、犬好きの母に空の最期を看取らせてしまったという負い目と、あまり私が悲しんでいる姿を見せると、もしかしたら母自身が自責の念を抱いてしまうのではないか、という思いがあったため、感情は吐露できませんでした。
空が死んだ当初は悲しみと罪悪感で心の中が一杯で、何をする気も起きず、何に対しても興味を失っていました。
が、(前回のブログでも少し触れましたが)次第に怒りの感情が大きくなってきました。
もちろん、自分に対しては最初から怒りを感じており、常に自分を責めていました。
ですが、時が経つにつれ、自分以外の他者に対しての怒りも募るようになりました。
まず、犬を連れている人に対してイライラするようになりました。
特に、空を嚙んだことのある近所のダックスフンドに対しての怒りは大きく、散歩しているところを見たときは「空を噛むような凶暴な犬があんなに元気なのに、なぜ空が死ぬんだ」「死ぬべきはあの犬のほうじゃないのか」という思いが急激に湧き上がってきました。その怒りはその場から動けなくなるほどで、そ知らぬふりで家に帰るのに苦労しました。
いったん他者に怒りを感じてしまうともう止まりません。
「空が死んだのに、なぜみんな楽しそうにしているのか」
「空がいないのに、なぜ普通に時間は流れているのか」
「空が死んだのに、なぜ何事も無かったように毎日を過ごさなければならないのか」
当時の私は、自分に対して怒ることに疲れ果ててしまっていました。
いくら自分に怒っても過去は決して変わらない。でも、自分を責めずにはいられない。
その出口の見えないループをただただ繰り返し、そして繰り返すこと自体にも疲れたのです。
もちろん、空が死んだのは決して他者のせいではありません。
ですが、感情のはけ口を求めていた私には、「他者に理不尽に怒る」ことは、自分を救うために必要なことに思えました。
他者のせいにすれば、今以上に痛みを感じなくて済むのではないか。
もしかしたら、悲しみや罪悪感も消えてくれるかもしれない。
当時はそこまで深くは考えてはいなかったのですが、無意識にそう感じていたのではないかと思います。
続きは次回。
ではまた。
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